世界を舞台に飛躍する小林愛実との歩みの第一歩。
構成・インタビュー・文 / 山本憲資
ショパンコンクールから1年
今から1年と少し前、コロナ渦で外出もままらない中、ちょうどショパンコンクールが開催されていた。世界中の若手の精鋭たちの演奏のストリーミングを、毎晩のように愉しんでいた頃が今から考えると少し懐かしい。そのコンクールで素晴らしい演奏を披露し、見事4位入賞を果たした小林愛実さん。
©Darek Golik / Chopin Institute
ファイナルで彼女が着用していた、動くたびに光の当たり方が変化し様々な表情を見せていたゴールドのドレスが西陣織の生地のものという話をなにかで見て、少し調べるとHOSOOのテキスタイルで仕立てられたものだということが分かった。愛実さんがコンクール用の衣装をお願いしたドレスメーカーが偶然にもHOSOOの生地を使って仕立てていたとのこと、細尾真孝さんにもさっそく話して驚きと喜びを共有した。
今春、京都で開催されたカルティエのハイジュエリーの特別受注会のレセプションにおいても多数のセレブリティたちがHOSOOのテキスタイル仕立ての衣装を着用していて素敵だったのも僕の印象に強く残っていた。それもあって、HOSOOのテキスタイルで仕立てたドレスを、愛実さんのように世界を舞台に活躍する日本人のハレの装いのスタンダードにしていくことにチャレンジするのは面白いのでは、と思った。さっそく細尾さんにアイデアを相談し、愛実さんにオフィシャルでHOSOOから衣装を提供できないものか、という話につながっていった。
プロジェクトのスタート
5月に愛実さんの大阪での公演を細尾さんと観に行き、彼女のピアノの素晴らしさを体感した。そのすぐあとに、愛実さんと京都のHOSOOのショールームを訪問。衣装作りのために、膨大な種類の生地のサンプルを見てもらい、このプロジェクトは始まった。
コンクールで着用した衣装の生地サンプルを見つけ『これ私のっ!』と目を輝かせる愛実さん。クラシックなコンセプトのものからモダンなテイストのものまで、1時間ほどじっくりと時間をかけて細尾さんがテキスタイルの説明をして、どの生地で次の衣装を作っていくかを考える。
最終的に2点を選び、11月22日に開催される今回のサントリーホールでの単独公演でのお披露目を目指して、この生地で衣装を仕立てていくことに決まった。ドレスのデザインは自身のブランドYUIMA NAKAZATOを展開し、パリ・オートクチュールコレクションにおいても活躍を続けている中里唯馬氏にお願いすることに。
4度ほどのフィッティングを経て、細やかなアップデートを重ねて、11月の初旬に晴れてドレスが完成。試着と撮影にあわせて、22日の公演を前に、改めて愛実さんにも話を聞いた。
HOSOOの生地の印象
(ショパンコンクールの)ファイナルのステージ、自分のドレスの生地が西陣織ということは知っていたんですが、その時点ではまだHOSOOのものとは知らなかったんですよね。ただ、モダンで日本人らしくていいなと思っていました。
そのあとショールームに伺わせてもらって、ほんとにたくさん生地があって、わーってなりました(笑)。西陣織って聞くと、やっぱり元々着物のイメージがあって、もっと昔ながらの着物を連想させる生地が多いのかなと思っていたけど、現代的なものも多くて驚きました。
特に、今回自分が選んだ黒い方の生地は、西陣織だってわざわざ説明しないとわからないくらいのモダンさがありますよね。西陣織についての視野が随分と拡がる機会にもなりました。
伝統的なこだわりを保ちながら、どうモダンに見せていくか、というのもHOSOOさんの重要なアイデンティティの一部だと思うのですが、新しいからといって決して奇抜なわけではなく、むしろ歴史を感じられる。原点となるものをベースに新しい要素を載せていってるのが素敵です。私がピアノで表現していきたいものとも通じるところがあるのかもしれません。
初のセパレート、パンツスタイルのドレス
今回ドレス、ボトムはスカートではなくパンツになっているのですが、当初はいわゆる普通のドレスの形がいいかなとイメージしていました。ただ、あがってきたサンプルをチェックするタイミングで、これはパンツのほうがかっこいいかなと思い、今回は初のパンツスタイルにチャレンジしてみることにしました。上と下が分かれているセパレートタイプというのもはじめてで。ぱっと見、セパレートなのか、パンツとも分からないところもあるのですが、いろいろな意味で新しいドレス、楽しみです。
完成のタイミングまで、計4回ほどフィッティングの機会があり、その度に意見を伝えて少しずつ自分の理想に近づいてきて、一緒に作ってきたという気持ちです。
小柄な分、サイズは自分仕様にしてもらっていることが多いのですが、これまでは既製品を少しだけカスタムしたり、セミオーダーだったりが多くて。意見を交わしながら作りあげるというより、ほぼ完成状態のものをチェックして、ということがほとんどでした。
ゴールのイメージがしっかり決まっていなかった分、今までのドレスで一番大変だったのですが、これも自分にとっては新しい挑戦になり、アーティスティックなドレスを作れてよかったです。1から自分が関わったドレスづくりは初めてでいい経験になりました。華やかだけどモダンなこういう衣装をクラシックで着ている人はまだ少なくて、テキスタイルも含めて、自分が発信していけるといいなと思っています。
ステージのドレスに求めるもの
日本のクラシックのステージではまだよく着られているちょっと昔っぽいドレスは自分にはしっくりこなくて。ユジャ・ワンみたいなセンセーショナルなのもいいけど、私はあそこまで足を出さなくていい(笑)。
もちろん、大前提としてみんな好きな服を着たらいいんだと思います。お気に入りのデザイン、着心地のいいものを着て弾くのが一番です。私はステージにあがるときは、華やかなもののほうが気分があがるし、やっぱり女の子だからというのもあってドレスを着たいです。男性はだいたいスーツに決まっていてそれはそれで楽でいいかな、と思うときもあるけど、やっぱりそこは大変だけど女性の愉しさのひとつ。楽しんでいけたらいいなと。
今回のサントリーホール公演について
前回のサントリーホールでの公演は3月で、約8ヶ月ぶりになります。私たち音楽家にとってサントリーホールで演奏できることはやはり特別なことで、曲目も前回とは全曲変えて、また新しい一面をお客様に見せていけたらと思います。最終的に演目は9月くらいに決めました。今回はバッハとブラームスをメインに取り上げます。
ドイツの古典派の曲には原点回帰のイメージがあります。曲はクラシックな側面が強いですが、演奏にはモダンなエッセンスも加えていければと思っています。HOSOOのイメージ、生地ともシンクロニシティがありそうですね。
実はバッハはそこまで好きではないのですが、コンクールのあとに新たに取り組んでみたいと思った作曲家の中に、前回のサントリーホール公演で演奏したシューベルトと並んでバッハもあって。あ、演奏曲目には、もちろんショパンも入れますよ(笑)。そして、その並びに合いそうなのはブラームスかなと思い、今回の曲目が決まりました。
ブラームスはどちらかというと男性が弾く印象があります。硬質で重厚な音で、曲自体も長い。モーツァルト、ショパン、シューベルトの作品によくみられるようなアンニュイで線が細い曲のほうが、男っぽいものが多いブラームスより得意だなと感じるところはあるのですが、今回弾くブラームスの作品119『4つの小品』はそういう要素もミックスされたところもある作品なので、チャレンジしてみることにしました。苦手かもと言いつつも、ブラームス、バッハ、シューベルトと推し並べて、やっぱり古典、そしてドイツ語圏の曲が好きなのでしょうね。
苦手かもと思う作曲家との向き合い方
バッハもそうですが、実はそこまで好きじゃないと思う部分があっても、向き合わないといけない作曲家の曲には今のうちに逃げずに挑戦した方がいいかな、と感じています。今やっておかないと覚えられなくなってしまいそうで。
20歳までに難曲をやりなさいとよく言われてたのが、いまの歳(27歳)になってよく分かりました。インプットは若いうちにしておかないと、どんどん覚えるのが遅くなるんです。25歳まで、30歳までとおそらくラインがあって。
40代を過ぎてから新しい作曲家、作品に取り組んでいくのは本当に大変になると思うので、作曲家の特徴をそれまでにインプットしておければと思っています。何年か前に、内田光子さんがベートーヴェンのディアベリ変奏曲を弾いていたのを聴きました。ああいった歳を重ねてから弾きたいと思える曲もあるのかもしれませんが、まだ若いと言える間は挑戦の割合を大きくセットして日々の学びを重ねていきたいですね。
世界を舞台に活躍すること、日本人であることへの意識
コンクールから1年が経って、やっぱりメディアの扱いも少し変わって、何より海外で演奏できる機会が増えたのはよかったです。責任を持って生きていかないといけないという気持ちも少しずつ芽生えてきました。
この夏からパリに住み始めて、前々からヨーロッパを、中でもパリに拠点にという気持ちがあったのが、ちょうどいいタイミングで実現できました。海外で暮らし演奏していく中で、日本人であることを常に強く意識するということはあまりなく、クラシック音楽はヨーロッパから生まれたもので、その観点からは自分たちはどうしてもよそ者なところもあり、日本人として発信していくという気持ちはそこまでないかもしれません。
とはいえ生まれ育った日本のよさも感じますし、日本人であることに誇りはあります。衣装に関しても、今回のような日本のよさを活かしたドレスを着られるのはとても嬉しいし、日本人だからこそですよね。
音楽に関しても、作曲家の武満徹は私も好きで、フランスでも人気があります。弾けたらやっぱり愉しいでしょうし、将来的にはプログラムに入れていけたらいいですね。その側面ではドイツ人は母国の作曲家の曲がたくさん弾けて、うらやましい(笑)。
コンクールが終わって1年。コンクールに出なきゃいけない、という義務的な部分からは開放された部分もあって少し楽になっているところもあります。とはいえどこかしら焦る気持ちもあるのですが、そこは焦らずに今の気持ちを大切に自分らしくやっていきたいですね。